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ほんとうのさいわい


皆様、いかがお過ごしでございましょうか。
新年のご挨拶もせずほったらかしておりましたが、
今年もヒツジ牧場をよろしくお願いいたします。


そして、今年最初の更新が牛の記事ってどうなの(汗)
ほんとうに近々「牛牧場」と化すのではないかと・・・(汗)



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 東日本大震災の後には、宮沢賢治がよく用いた「ほんとうの幸い」という言葉に多くの人が目を向けた、と新聞にあった。
 「幸い」とは。万葉集研究の第一人者、中西進さんの『ひらがなでよめばわかる日本語』から抜粋。


「日本語は発音上母音をかえて、新たなことばを生んでいきます。「さき」のもとは「さく」。「花が咲く」の「さく」です。そしてこれが「さか」「さき」「さけ」というふうに、変化していきます。「さき」はもちろん、「さく」の名詞形で、「遅咲き」「早咲き」などといいますね。
 すると「さきはひ」ということばは、花盛りが長く続く、といういう意味になる。まさに人間が感じる「さいわい」とは、心のなかに花が咲きあふれてずっと続く状態、それを、日本人は幸せだと感じたということがわかります。
「さいわい」というと、現代人は抽象的に、何となく満たされた気分のようにかんがえるでしょう。
 しかし、本来、日本人はきわめて具体的に、花があふれ咲き満ちているような状態を思い浮かべて、それを「さきはひ」と表現した。これが古来、日本人の幸福観だったのです。
 日本人の感覚はきわめて具体的です。そもそも幸福観など、抽象的でどういうことをいうのかわかりにくいものと考えがちですが、まさにそれが現代人の悩みです。
 古代の日本人は、「幸福って何?」と問われると「心の中に、いっぱい花が咲きあふれているように感じること」とすぐ答えられました。その証が、「さいわい」という日本語です」

ひらがなでよめばわかる日本語 中西進 著・新潮文庫

 このサイト〝misty's pups〟は、なごみとぬくもりだろうか。


以上文責 牛 









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音楽





言葉は要りませんね。




文責 牛








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青豆御飯。ちと、遅かりし。

最近では月イチペース(以下?)になってしまっているヒツジ牧場でございます。
何かと慌しくしており、半ば放置状態の牧場ですが
元気にしております。
もうじき梅仕事の季節なり。


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グリムスの木が萎れてきたので代筆をば。

田圃 

さて、何を書こうかと頭搾れど、何も浮かばず。梅雨の割に雨が降らないねえ……年を取るほど雨が憂鬱になるのはなんでだろう? これは年のせいじゃなく、カラダがこの地と同調してきた証拠かもしれないなあ…………動物は雨の日は無駄なエネルギーを使わないように寝ている、エサをとれないから無駄をしない、危険も多いから寝ている、自然界の理に適っているよなあ……だから気圧が下がると行動も鈍る…ヒトは無理して動き回る………こりゃあ、どう見ても動物の方が賢いなあ…………なんて、雲を眺めながら、ぼんやり思い巡らす……のである。そういえば、田植えが始まったなあ……。

青豆ごはん

青豆御飯。5月にはヨク食べた。旬は過ぎたが、所によっては6月下旬に2度目の旬到来。作り方を『御飯の本』(辻嘉一著、婦人画報社、昭和35年)から抜き書き。

その前に辻先生から炊き込み御飯の注意点をひと言!

 御飯味噌汁

 炊込み御飯というからは文字通り米と菜を一緒に水から炊きあげるのがオーソドックスであることは申すまでもありません。そしてたしかに、そのようにして調理した炊込み御飯には、おいしいものが多いのです。しかし中には、米の煮え時間と菜の煮える時間とにギャップのあるものもあります。そのため真味が失われるような菜の場合には、別仕立ての具として炊きあがり直前に投入してまぜあわせる調理法のものもあります。注意していただきたいのは、このような調理法の炊込み御飯の中には、見せかけの幼稚な美しさのためにわざわざ別仕立ての具としたものもあるということであります。
 例えば、青豆御飯は米と豆と一緒に煮るとどうしても豆の青味がきれいにあがらないものです。そこで、豆をさっとゆがいて色よくつくっておき、塩味御飯の炊きあがりにまぜあわせるという方法があります。これは、みせかけの美しさのために味を犠牲にしているのですが、いつしか、味覚まで頽廃して、色のよい青豆御飯の方を上等品だと思いこんでいらっしゃる方もございます。一般に料理屋料理というものはこうした堕落におちいりやすいものなのであります。御家庭の料理が、こうした傾向にひきずられないことを切に祈ります。

では青豆御飯の炊き方。
 豌豆の季節は五月です。
 もぎたての豌豆のやわらかい真味を知っている人は、列車に揺られて何日もかかって送られてくる暖国の初物の豌豆を食べようとはなさらないでしょう。それほどその土地の自然の旬にできるものはおいしいのです。
 青豆御飯に使う豌豆は、そのもっともおいしい土地産のものの、すこし若目の水々しい頃をはかって使います。皮に黄味がかかると固くて最良は望めません。薄皮が歯に感じられないほど、御飯と豌豆が同体になったとき、塩味が両者の味をひきたてて季節の味の歓喜を教えてくれるのです。
 御飯の水加減をし、塩味もつけ終わったところへ、皮をむいて手早く洗った豌豆を加えます。米一升に豌豆二、三合の割合よいでしょう。そして、色目にこだわらず十分に蒸らしてから櫃にうつします。冴えたグリーンの豆の美しさもさることながら、熱によって褪せた淡い豌豆の色調こそ、料理の本道からは美とみたいのです。着色剤を使った罐詰や瓶詰のあくどい色だけが美しいと思うのは幼稚な感覚だと思います。
 青豆御飯は初夏の炊込み御飯の王座です


青豆ご飯指摘する要点がないほど簡単な料理。あえて挙げるなら炊く時の塩加減で、塩を入れかき混ぜてから味をちゃんと見ること、ぐらいでせうか。こういう簡単な料理ほど技術が試されるのかもしれない、と羽釜の火加減には細心を払った。写真の米は一分づき米。

もう少し経つと枝豆の時季。次回は旬に遅れぬようお届け致しませう。


以上文責 牛 







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「被害が出たら補償します」

ならば、と、我々の生活を考えてくれるはずの農林水産省に訴えたら、
「被害が出たら補償します」と馬鹿なことを言う。

ダイヤモンド・オンライン「職あれば食あり」というコーナーのなかに『放射能汚染は生産者の暮らしをどう変えたか 漁師&農家が語る 「原発事故」と「生産者のいま」 ――“見えない敵”と闘い続ける漁師×農家対談』が前編、後編で掲載されている。私たちにとって、原子力発電とは何か、放射能汚染とは何か、現代社会とは何かを真剣にお考えの方は、ご一読あれ。


以上文責 牛 


『放射能汚染は生産者の暮らしをどう変えたか 
漁師&農家が語る 「原発事故」と「生産者のいま」
――“見えない敵”と闘い続ける漁師×農家対談』
前編
http://diamond.jp/articles/-/16475
後編
http://diamond.jp/articles/-/16700








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どうなることやら

昨年末、50歳になった。半世紀も生きるとヒトの群れ(世)に対して見切りがつく。

いままでヒトという動物には理性があり、時と共にヒトも社会も成熟し、不公平や不正や極端な欲望は薄れ、暮らしやすい社会になると、小さい頃から漠然と思ってきた。

40歳を超した頃から、唯名論ではないが、社会とか人類などは幻想でただヒトという動物がいるだけなのかもしれないと思いはじめた。我ながら随分悠長な成長具合だったと思う。

セレブとかエグゼクティブとか呼ばれるヒトたちが自家用のジェット機で飛び回り金を稼ぎ贅沢をする一方で、民族紛争や饑饉に追われ食べるものもなく、餓え痩せ衰え死んでゆく我が子を見つめるだけしかない母親もいる。

この星にある不公平は、世界人口の数%の富裕層と政治家・企業家のせいだ、と決めてしまえば簡単なのだが、そう単純でもないだろう。わたしたち大衆にも同じくらいの性悪さがある。戦争などの歴史を眺めればわかることだ。わたしたち大衆の方が質が悪いことも多い。結局、わたしたちは自分のほんの目先のことしか考えていないのだ。

子どもがあるヒトでも真剣に孫の世代を考えて行動しているヒトなどは皆無だろう。すると「この大地は、未来の子孫からの借りもの」と言った北米大陸の先住民たちは、大いなる知恵者だ。いまという時は未来からの借りものといえる。わたしたちのおぞましい行動は、未来の子孫を苦しめるだけだ。

わたしたちの生に課せられたのは、生物学的にはただひとつ、めんめんと伝わってきた遺伝子を次へと伝えること。ただそれだけである。アミノ酸から進化してきた、わたしたちの遺伝子を伝えること。ホモ・サピエンス(=智恵のあるヒト)としてならば、約20万年前に誕生したアフリカのイブ(ミトコンドリア・イブ)の遺伝子を伝えることが、生きる使命となる。ただそれだけのこと。

ヒトという動物は希望を失うと子孫を残そうと思わなくなるらしい。アフリカで白人のヒト狩りの対象になった民族がまったく性行為をしなくなったと言われている。この島ではセックス自体が面倒、興味がないという20代が増えているとか。30代、40代で結婚が面倒というヒトビトも増えている。子どもが減るというのがなぜいけないことなのだろう。すぐ経済的に労働力などと言うが、馬鹿も休み休みにしてもらいたい。

子どもを労働力と見なすようになったのは弥生時代に入り稲作や農業が本格化してからだそうだ。縄文時代の遺跡からは小さな子どもの足形や手形が成長を祝う証として出現している。採取狩猟生活は農耕生活より危険が伴う。ときには何十日も家をあけ、野山を海辺を駆け回り食べ物を探す。そうやって帰ってきたときの喜び、家族に会ったときの嬉しさ。いまのように遊びがいっぱいあるわけではない。子どもは和みそのものだったのだろう。

社会がここまで複雑になってしまうと、ときほぐすのはもはや不可能だろう。自己愛や超拝金主義や無関心や弱肉強食が、行きつくところまで行って、ぼろぼろになればまた違った考えも生まれるだろう。生ぬるい時代で生ぬるくあたたまった脳ではダメなのだろう。追いつめられるところまで追いつめられれば、なにかスイッチが入ってはたと気づくかもしれない。うまくいけばそこでやり直せるかもしれない。だめならだめで仕方ない。それがヒトという動物の命運なのかもしれない。

いや、いや、山本周五郎さんではないが、わたしだって自分の目の前のことしか考えていない。気づかないヒトより質悪いのだろう。民俗学者の宮本常一さんのように、大衆は愚かだと認めつつも慈しめればよいのだが、とてもじゃないが愛せない。この憤りはわが家に流れる血のようなものだろう。母方の祖父にも父にもそんな血があり、憤っていたが、なにもしなかったし、できなかった。わたしも同じだろう。

まあ、ここまで書いたのだから仕舞まで書いてしまおう。

一昨年の統計によると、就職しても数ヶ月で辞めてしまう若者、就職できない若者が、大学・専門学校卒で約5割、高校卒業では約7割。ニュースでは「若者のストレス耐性が弱い」「企業がコスト削減で新卒者を育成できない」などと理由を挙げていた。

さて、こういう問題でよく「今の若者は」「今の子たちは」と言うオトナがいるが、そういう若者を育てたのは「今のオトナ」であり、若者たちは「今のオトナたちが作りあげた社会」で生きているのである。この問題に関しては、今のオトナが子どもたちに「生きるとは何か」という単純なことを教えなかったのが一番目の原因。二番目は「会社」という組織がヒトをヒト扱いしなくなったことである。

先日、サッカーの五輪予選バーレン戦をテレビで観ていると「あなたは、あなたが食べたもので、できている」という広告が流れ、ヒツジが感心した後に広告主を見て「この会社には言って欲しくない」と憤っていたのだが、生きるとはまさに「ものを食べて体を維持すること」だ。

「人はパンのみに生くるにあらず」というが、それは心の問題で体はパンがなければ死んでしまう。「食べる」ことが「生きる」ことの原点。ところが長いこと、ちょうどわたしが生まれた昭和30年代の半ば頃から、オヤと呼ばれ、オトナと呼ばれるヒトたちが、「食べる」ことの大切さを見失ってしまったように思える。かといってその時代のオヤやオトナを責めても仕方ない、戦争が終わりがむしゃらな時代が終わりかけ豊かさと夢が見えてきた、そういう時代だったのだから。しかし「高栄養=肉や油」「安い」「早い」「便利」「アメリカへの憧れ」が食生活を変えた。

きれいな空気と水と適度な栄養なら植物も順調に育つだろう。しかし、いま、この島の9割くらいのヒトは、化学物質の入った刺激的な水を飲み体を洗い、季節外れなうえに化学肥料で育成された野菜を食べ、得体の知れない飼料を食べ薬を飲まされた牛・豚・鶏を食べ、工場のヒトビトが気持ち悪くて食べたくないという添加物たっぷりの加工食品を食べている。まともじゃない。アトピーや低血糖症などいろいろ弊害が出ていると思うのだが、もうそれすら考える能力もないのか、体に危険な「安い・早い・便利」さらに求める。これは細胞、肉体面の話。

あと数十年もすればテレビ、マスコミ、アニメ、コミックス、携帯電話、ゲーム、パソコンなども、いまの粗悪な食品と同じようなものだったと気づくだろう。これは精神面の話。

これらに加え、個人の権利を主張する社会、有無を言わせず自己愛を認めさせるストレスの高い社会。そういうものが混じり合い、混沌として、さらに混沌を生み出す。

「自由な市場」や「グローバル化」をひと言で言えば、アメリカに有利な方法での取引を弱い立場の国に強要することである。ただそれだけのことである。「上喜撰たつた四杯で夜も眠れず」でペリー来航時代と変わっていない。頭が良いのか悪いのか企業は右往左往。為替が上がった下がったでシッチャカメッチャカ。

東京電力は死んだふりで嵐が通り過ぎるのを待っている。現代生活において電気は必要なものである。原発事故は事故で、起きてしまったからもう元には戻せない。東京電力の真価が問われるのは、いま現在、苦しんでいるヒトビト、ペット、家畜、農地、山川草木にどういう態度をとるかなのである。それこそ人間性なのである。エリートといわれるヒトビトは、こういうときにとる態度を知らない。

さて、この島のホモ・サピエンス(=智恵のあるヒト)はどうなるのだろう。どうするのだろう。

ついでだから書いてしまおう。

いろいろな事を考えさせられる一年だった。生活基盤を奪われた方々の生活再建と地域の復興、福島第一原子力発電所事故による甚大な被害。どちらか一つだけでも大変なことなのに、それらが同時に起こったうえに、世界経済という正体の分からない不気味なモノも先行き不透明だ。問題山積。

時間はかかるが復興はするだろう。歴史が物語っている。数え切れないほどの饑饉、自然災害、戦争の空襲、原子爆弾による破壊。それでもなんとか立て直してきた。以前とは同じにはならないのは、残念だが、それは仕方ない。

いちばん気になったのは家族を目の前で失った人の心だ。親しい人が突然消えてしまう。それだけで心は停滞してしまう。ましてや自分の目の前で消えたとすれば、繋いでいた手が離れ消えてしまったとすれば。

心の整理など出来るものではない。目を閉じれば同じ光景が何度も何度も甦る。そして「○○だったら」「○○してあげられれば」と「あの時、もし」の仮定の世界が繰り返される。

誰かに「仕方ないさ」と言われれば、頭ではわかるが、心はわかっていない。算数ではないから、スパッとできない。

時をかけて自分のなかで弔ってゆくしかない。

何年経っても心がすっきり晴れることはないでしょう。

哀しみが消えることはないでしょう。

何かあれば、すぐいろいろと考えてしまうでしょう。最後に目にした姿は強烈すぎて、それを消すことは難しいでしょう。思い出すたびに、あなたの親しい人はとてつもない苦しみのなかにいる。しかし、その苦しみはもう終わって、いまは安らかに眠っています。楽しい思い出はたくさんあったと思います。笑いあったこと、喜びあったこと、笑顔を思い出してあげましょう。死んだ人々の未来は無くなってしまい、いまあなたの傍らにはいません。淋しいでしょう。悔しいでしょう。辛いでしょう。それでも、その人があなたの心を温めてくれたことを思い出しましょう。そういう時を過ごしたことを思い出しましょう。笑顔を思い出しましょう。その笑顔があなたに何かを言ってくれるでしょう。思い出してあげましょう、笑顔を。生き残った人間が死んでしまった人にしてあげられるのは、それだけです。いま生きているのだから、これからも生きましょう。できれば朗らかに穏やかに生きましょうよ。もうすぐ春がやって来ます。外に出て体を動かしましょう。息を大きく吸って、吐いて、空を見てみましょう。大げさなくらいに足を上げて手を振って歩いてみてください。知った顔でも知らない顔でも、道行くヒトに頬笑んでみましょう。しんどいかもしれませんが、結局はあなた次第なんです。どうしてもしんどければ心の医者、精神対話士、傾聴士などさまざまなプロがいます。そういうヒトビトに頼るのもひとつの手です。心のなかで弔いつづけながら、生きていきましょう。


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